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 ◆プロ・ライター、また多方面で活躍されている野田誠司氏のコーナー◆
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カルメン・マキ:新譜リリース間近!!
4年前のインタヴューを編集し、掲載しました。  

カルメン・マキ/Carmen Maki  インタヴュー 2000年2月15日
以下:C=Carmen Maki 、Q= 野田誠司

Q:
それでは、始めに天井桟敷に入っていた頃の話からお願いします。
C:
天井桟敷ができたのが67年で、試験を受けたのが68年、69年には歌の方
でデビュー(「時には母のない子のように」)しちゃったので、一年か一年半
くらいかな。舞台には出ましたけど、「書を捨てよ、町へ出よう」や「時代は
サーカスの象にのって」とか・・。でも、自然消滅的に抜けちゃって。当時
は、アルバイト的に映画とかの脇役と群衆など劇団の人達と一緒に出たりして
ましたね。

Q:
三上寛さんやリリィさんと劇をやっていたのは、いつ頃なんでしょう?
C:
69年に歌でデビューしてからですね。三上寛が青森から出てきて、住まいが
ないからということで、うちで居候していて。あの人(三上寛)、板前やって
たんですよ。私、デビューして滅茶苦茶忙しくて、今で言うアイドルみたいな
生活でしたから、で、帰ってくると、トントントン、食事を作って待っていて
くれるんですよ。(笑)で、リリィもその頃、うちに転がりこんできて、2〜
3日泊まって、ぶらっと、どこかへいなくなっちゃう、そんな生活でした。

Q:
天井桟敷や東京キッド・ブラザーズの関係者の相互に行き来とかってよくあっ
たんでしょうか?
C:
え〜と、天井桟敷の「書を捨てよ、町へ出よう」は、初めの振り付け演出は、
キッドを作る前の東さん(東 由多加)がやっていて、寺山修司さんは本を書
いただけだったの、で、初日に、東さん、姿を消しちゃったんですよ。で、す
ぐ、キッドを作っちゃって。行き来って・・寺山さんと唐さん(赤テントの唐
十郎)とかは、一緒にってことあったけど、役者同士がってことはなかったと
思う。

Q:
歌でデビューして、カルメン・マキ&OZ結成までのこと、
それにライヴなどは?
C:
バンドを作っては壊し、作っては壊しで、デビューはしなかったけど色々やっ
て。ライヴ・ハウスっていうのが無い時代ですからね。ビア・ガーデンとか、
う〜ん、ディスコも無いし、なんて言ってたんだろう?ダンスホールでもない
し。ディスコの前身みたいなものだったのかなぁ。一日に5回ステージとか、
夕方からやって、朝の始発で帰ったり。

Q:
OZの前のブルース・クリエーションでは英語で、OZになって全部日本語に
なりましたよね。その辺のいきさつは?
C:
英語のロックをコピーしたりして歌ってたのが始めで、徐々にオリジナルを作
り始めると、英語を日常的に使ってるわけじゃないし、ちゃんと英語の歌詞を
書けるわけでもないから、日本語の歌詞の歌になっていったという感じ。

Q:
OZのデビュー時って、メンバー入れ替わってますよね。
C:
OZは、もう、ずいぶんメンバーが入れ替わった。オリジナル・メンバーって
春日と私だけですよね。デビューする前に、何人も替わってるし。ベースが最
初は、鳴瀬義博くんだったんだけど、デビュー前にチャーとスモーキー・メ
ディスンを作って抜けちゃって。

Q:
メンバー・チェンジが多いと大変じゃなかったですか?
C:
う〜ん、なんていうか、今と全然やり方違いますからね、当時は。バンドって
いうのは、常に練習しているものですから、一週間に5回くらい練習するわけ
ですよね。常に音出しをしていたし、デビュー前から、ビアガーデンとか、
ジャンジャン(渋谷公演通り山手教会の地下を借りたたぶん、日本のライヴ・
ハウスの最初の店。残念ながら今年で店を閉じる)などで定期的にライヴを
やっていたし、デビューしたときにも、そのメンバーですぐに出来るわけで
す。ライヴをやっているから。それに、ライヴを続けてやってきたから、お客
さんがついてるんです、たくさん。デビュー前にすでに、ジャンジャンを満員
にしていたし、もう、待ってましたとばかりにレコードが出たんですよ。だか
ら、売れて当たり前という状況でした。メンバーが入れ替わっても、日常生活
の中で続けて練習してるから、すぐに音になるわけですよ。

 今って、よく分からないけど・・、色々なところから知らない者同士が集め
られてきてバンドやらユニット作って、レコーディングもなにもかも決まって
いて・・と言う感じでお膳立てされちゃってるわけでしょ。曲もあって、発売
日も決まっていてって、それに合わせて、練習して、レコード出してから、た
くさん宣伝したり、ドラマのテーマソングにしたりして売れていくわけじゃな
いですか。私達の頃は、まったく逆だったんです。気の合った者同士でバンド
やっていて、売れようが売れまいが、常に曲を作り、常にリハーサルするわけ
ですよ。それで週に5回、練習したりするわけですよ。古い言い方だけど、そ
れで下積みしていくわけです。OZは、デビュー前にそういうことを3年くら
いやってるわけですよ。だから、客はもう、しっかりついているし。メンバー
が替わっても、練習やライヴが当たり前の生活だったし。全然、今とやり方が
違いますよね。
 レコードを作るための練習じゃないんですよ。お客さんがすでに、ちゃんと
いるわけですから。だから、曲作りだってレコードのためでなく、ライヴのた
めなわけです。すでにストックをたくさん作っていかなくちゃいけない。それ
が、ミュージシャンとして当たり前のことだった。

Q:
ライヴがレコードの売り上げを決めていた時代ってことですよね。
C:
そうですね。
私達の頃は、断りましたからね。レコード会社からの誘いを。当時、ポリドー
ルの人がライヴに何度も通って、「レコード出さないか」という誘いをかけて
くれても、断りましたもん、私達。まぁ、何度もの誘いがOZのデビューに繋
がったんですが、まだ、最初は、レコード出せる段階じゃないと思って断った
んです。もっと、練って、練習して上手くなってからでないと納得できなかっ
た。OZの結成が72年でデビューが75年ですから。オリジナルのストック
も出来て、熱心な誘いにやっと応じたのが75年だったわけ。これくらいだっ
たら、お客さんもついてきてくれてるし、レコード出しても恥ずかしくないだ
ろうなと思いOKしたわけです。

Q:
アルバムの話に戻して・・『閉ざされた町』ってプログレッシヴ・ロックぽい
ですよね。
C:
そうですね。OZってそうだったんです、初めっからね。ベースの川上重幸が
キング・クリムゾンとかピンクフロイドとか大好きだったんで、その影響も
あって。

Q:
僕ちょっと80年代のアルバムを聴いてないもので、90年代のものに話を移
すと、『カルメン・マキ&モーゼス』は、ちょっとジャズっぽいアレンジです
よね。
C:
そうです。ちょっと意識的にそうしてみました。あの・・雑多なんですよ、
私。音楽の好みも、やることも。無節操なんですよ。(笑)なんでも聴きます
よ。家で流してるのはジャズばっかりですけど、ヴォーカルの入ってない。

Q:
デビューするまでに、影響を受けた音楽とかって?
C:
当時、私、ステレオさえも持っていなかったの。で、デビューしても、持って
ないから自分の歌が聴けなくて。で、当時のCBSソニーの社長が私の18歳
の誕生日にステレオをプレゼントしてくれたんです。ステレオ一式と私のレコ
ードと・・。それに、あの頃の洋楽ロック(60年代末)ってほとんどCBS
ソニーだっんですよ。で、そのステレオセットと一緒に洋楽のレコードを何枚
か貰って。ジャニスとかジミヘンとか。それがね、ミイラ取りがミイラになっ
て。私、それを聴いたおかげでロックやりたくなっちゃって、で、CBSソ
ニーやめちゃった。(笑)そういうわけで、プロの歌手になってから、音楽を
聴き始めた。それ以前は、ラジオでビーチ・ボーイズとかベンチャーズとか、
聴いていた程度。

Q:
あの頃(60年代)って、ラジオにしても、TVにしても洋楽がよく流れてま
したよね。日本人歌手も洋楽を訳してカヴァーしていたし。
C:
「ビート・ポップス」とかねぇ、NHKの「夢であいましょう」とか。今より
ずっと洗練されてましたよねぇ。今、ヴィデオで再発されてるんですよ、「夢
であいましょう」。で、今、観てるんですけど、すごくセンスがいいんですよ。

カルメン・マキ オフィシャル・ホームページ
http://www.carmenmaki.com/

     野田誠司 ホームページ http://rockjazz.com/noda/