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 ◆プロ・ライター、また多方面で活躍されている野田誠司氏のコーナー◆
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         ■ブルースに塗れろ!III■
<FREE>
ポール・コゾフ:サイモン・カーツ:アンディ・フレイザー
ポール・ロジャーズ:ラビット:テツ(山内テツ)

 ブリティッシュ・ブルース・ロックは、R&Bが主流であり、黒人のブルー
スがルーツであることを前面に出していた。しかし、60年代末のこのフリー
(それにクリーム)あたりから、ロック色の濃いブルースの個性が現れはじめ
る。もちろん、過去の遺産を切ってすてるようなことではなく、受け継がれた
伝統の上に確立した個性であったため、かってのR&Bファンにも、新しいロ
ック・フリークである70年代のファンにも受け入れられたのだろう。

 フリーの場合、なんといってもその第一の個性は、ポール・コゾフのそれま
でのブルース・ギターにとらわれない斬新かつ情感に溢れたギターだ。フロン
トに立つヴォーカリストのポール・ロジャーズがメインのように思いたくもな
るが、1972年、ポール・コゾフ抜きでのフリーの来日公演は、それまでの
フリーではなかった。やはり、フリーはコゾフあってこそではないかと思う。
もちろん、名作『ハート・ブレイカー』はコゾフが体調不調で半分しか録音に
参加していないにも関わらず、楽曲的にすぐれている。しかし、それでも、か
ってのフリーの色は薄くなっている。もちろん、僕は、ポール・ロジャーズの
ヴォーカルも数少ない絶品ロック・ヴォーカルとして大好きだが、ことフリー
としてとなると、コゾフのギターがあってのということになる。それだけ彼の
ギターは、いわゆるブルース・ギター以上の情感、いかにもイギリス人らしい
メロディアスな面との調和がすぐれていて感動を与えてくれる。フリーは、い
わゆるロック的なノリとカッコ良さと共に、聴かせるロックを心得ていた70
年代前半に多く存在したブリティッシュ・ロックの真骨頂なのである。
エリック・クラプトンが当時、どんどんアメリカ志向になり(それはそれで良
い楽曲を歌い演奏してはいたけれど)、また、ハンブル・パイなどもアメリカ
嗜好の強いR&Bを展開するなかで、このフリーは、英国然とした色が強く残
っていたバンドだった。

◆フリー:バイオグラフィー◆
1968年初頭、ギタリストのポール・コゾフとドラマーのサイモン・カーク
は、Black Cat Bones というセミプロ・バンドで演奏していた。が、二人は自
分達自身のバンド結成を模索してもいた。ある日、Brown Sugar というバンド
のライヴをサイモン・カークは観ることになる。そこで、目撃したヴォーカリ
ストは、コゾフが以前ライヴで観たWild Flowersというバンドのヴォーカリス
トであった。コゾフとカークは別々のバンドで同じ印象的なヴォーカリストを
目撃したのだった。それが、ポール・ロジャーズである。そして、カーク、コ
ゾフ、ロジャーズの3名は新しいバンド結成の話を煮詰めはじめたのだった。
バンドには、まだ、ベースプレイヤーが不在であった。そこで、加入すること
になったのが、15歳にして、かのブリティッシュ・ブルース・ロック養成所
とでも言ってよいジョン・メイオールのブルースブレイカーズに在籍していた
アンディ・フレイザーである。ブルースブレイカーズは、ジャック・ブルース、
エリック・クラプトン、また、フリートウッドマック(初期はコテコテのブル
ースバンドだった)を産み出したバンドでもあった。
 
 アンディの参加でバンドとしての形態が整った彼等は、ブリティッシュ・ブ
ルースの大御所アレクシス・コーナーより助言を得、バンド名を命名されると
いう幸運にも恵まれギグも行った。まだレコード会社との契約以前の話である。
1968年後半、アイランド・レコードと契約。しかし、この契約にはバンド
名のことで、ひともんちゃくあったのだ。レコード会社側は、FREEではイ
ンパクトがないので、 The Heavy Metal Kids という名をどうかと交渉してき
た。しかし、彼等は、その名称はひどく攻撃的な印象を感じ、自分達のイメー
ジに合わないと考えた。結局、レコード会社側もそのことを認める結果となり、
FREEのままデ
ビューすることとなった。彼等は、68年11月ファーストアルバム『Tons
of Sobs』をリリース。

1971年『FREE LIVE!』がオリジナル・フリーにとっての最後のアルバムと
なる。しかし、このアルバムリリースより1月ほど前に、オリジナル・フリー
は空中分解してしまっていた。バンドメンバーが英米と2分して旅立ってしま
うなか、ポール・ロジャーズが来日公演、オーストラリア公演の後に再びに日
本に単身で戻り、川口浩夫人の妹さんであるマチさんと電撃結婚する。
 
 空中分解同然の中、コゾフとカークは、日本よりもヨーロッパで成功を納め
たバンド「サムライ」出身の山内テツ、それにアメリカ人オルガニストのラビ
ットを加えKossoff, Kirke, Tetsu, Rabbit,名義でアルバムをリリース。しか
し、コゾフのいないフリーがフリーらしくないなら、ポール・ロジャーズのい
ないフリーもフリーらしくない。楽曲は良いものの周りの期待は、やはりフリ
ーとしてのアルバムだったためあまり売れなかったようだ。結局、ロジャーズ
のバンドも、フレイザーのバンドもかんばしくなく、また、オリジナル・メン
バーが結集して『FREE AT LAST』(これはアレクシス・コーナーのバンド名で
もあった)をリリース。そして、また、解散。しかし、来日のために、急遽、
ロジャーズ、カーク、ラビット、テツの4名でFREEとしてELPのサポートと
いうかたちで来日公演。その年の秋からコゾフも加わり5人編成で最後のFREE
がスタート。しかし、コゾフがドラッグの使用による体調不調で中途脱退し、
ギタリストが曲ごとで違うアルバム『Heartbreaker』をリリース。若い人には、
ゲーリー・ムーアのカヴァーの方が馴染みのあるFREEのオリジナル曲「ウィッ
シング・ウェル」がシングル・ヒット。最後に傑作アルバムを残して、ツアー
後、そのまま永久にバンドを葬った。73年春だった。
 
 FREE ディスコ・グラフィー
(FREE 名義のアルバム:コンピーレション盤は除く)

『TONS OF SOBS』November 1968
『FREE』     October 1969
『FIRE AND WATER』 June 1970
『HIGHWAY』   December 1970
『FREE LIVE!』   July 1971
『FREE AT LAST』 June 1972
『HEARTBREAKER』 January 1973

手頃なお薦めベスト盤
Universal Masters Collection『 Free 』
 価格: ¥2,233
フリーの代表曲16曲を網羅。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005O83H/rockjazzcom-22


     野田誠司 ホームページ http://rockjazz.com/noda/